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Portrait of Hitomi Kanehara

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Portrait of Julienne Weijden

Julienne Weijden (NL)

Portrait of Shailoh Phillips

Shailoh Phillips (GB)

COLUMN 1

13 November 2009

日本語には、一人称が複数ある。女性の場合は大抵が「私」だが、男性の場合は「僕」「俺」「私」の三つを使い分けている。目上の人に対して話す時は「僕」、友達や彼女など砕けた関係の相手には「俺」、スピーチや面接など、公共的な場では「私」と使い分ける事が多い。女性が自分を「僕」、或いは「俺」と呼んでいれば性倒錯的な意味を持つし、男性が日常的に自分を「私」と呼んでいれば、そこにはゲイ的な要素が含まれる。

以前、翻訳家である父からこんな話を聞いた事がある。あるヤングアダルトの小説を訳そうとした際、日本語の一人称の問題に直面したのだという。簡単に言えば、主人公の男の子のモノローグを中心にストーリーが進んでいき、途中からその男の子が実は女の子だったという事が分かり、それと同時に物語が爆発的な広がりを見せるという話なのだが、日本語では一人称で既にして性別を表現している事になるため、本当は女の子の主人公が自分を「僕」と呼んでいれば少年的なるものに対する憧れや、自分の女性性への嫌悪を暗に示してしまうし、「私」と呼んでいれば最初から女性的な男の子という印象を与えるので、実は女の子だったというストーリー展開がうまく機能しない。結局、英語の「I」のトリックを忠実に日本語に訳す事は出来なかったという。日本語というのは、一人称が既に自己表現なのだ。

もう一つの日本語の特徴は、文章内に於いて主語が省けるという点だ。もちろん主語が全くない小説などほとんどないが、一人称で書かれようが、三人称で書かれようが、前後の文脈で主語が想定出来るのであれば、必ずしも必要ではない。むしろ、全てのモノローグに主語が入っていると、うるさく、自己主張が激しいという印象を与えさえする。だからこそ、主語を入れる事によって「私が」という言葉を強調しているような演出も可能となる。編集者が新人作家の原稿にチェックを入れる際も、無駄な「私は」を赤字で囲むのは定番となっている。

私は英語がほとんど出来ないが、英訳された自分の小説をぱらぱら読んでみると、日本語では蠢く青虫のように見える自分の文章が、随分とかっちりした、論理的な文章に見える。海外などでインタビューを受けると、自分の言葉が通訳によって英語に訳されていくのを聞きながら、自分が話した言葉よりもずっと理性的で賢い言葉に言い換えられているような印象を持つ。

翻訳は難しいし、言語の違いは越えがたい障害だ。しかしそもそも、私が日本語を習得し、日本語で話したり、小説を書いたりしている事自体が、翻訳でもある。他人と接する時、言葉や身振り手振り、表情やちょっとした視線の動きなどを交え、コミュニケーションを図ろうとする事自体すら一種の翻訳である。そうして自分でも自分を納得させるため用いている言葉によって構成された小説が、どんな言語に、どういう形で訳されようと、そこに本質的な差などあるだろうか。同じ日本人でも言葉の通じない人はいるし、言葉が通じなくても気持ちが伝わる人はいる。自分が、そして自分の小説が、そうして他国の理解者と出会える事を祈りながら、ハーグを訪れたい。

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